昭和46年08月26日 朝の御理解
御理解 第26節
「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
信心には連れがいらぬ程の信心をさせて貰いたい。ところが連れがいらぬ程の信心させて貰いたい。実はやはり連れがなからなければならない、同情がなからなければならない、やはり信心友達がある事が有り難い。福岡の吉木先生、三代の吉木先生がお話になっとりましたね。真名子さんと言う婦人の熱心な御信者さんが居られた。田舎の方へ家移りをなさった。その時に市内におる時には信心友達がおって、まあ賑やかに又お参りが出来ましたが、いよいよ田舎に参りまして、信心者と言うは一人も居りません。
と言うて信心に連れのない事を嘆かれた時に、吉木先生が、真名子さん連れはあんたの周囲に作ればよいじゃないかと仰った。だからそれに勇気を得て、それはそうだと言うので、それから、自分のあのところは何と言いましたかね、そうそう荒江の町と言うでしょうか、村と言うでしょうか、もうそこ一帯に御信者さんが沢山出来ました。もうあっちの宅祭りの時なんかには、それこそあちらの広い家にいっぱい人が集まって。
翌る日は信者さん方は、全部リヤカーでそのお供え物を、荒戸まで運ばなければならない位に多くなったんです。成程信心に連れはいらぬと言われるけれども、やはりそういう意味に於いてはいる。けどこれはいよいよの時であると思うですね。信心に連れはいらぬと言うのは、いよいよの時、さあもう今日は雨が降るから、風が吹くからという時でも、さあお参りなさいと言えば、誰でも信心の薄いものは逃げますでしょうしね。
まあいろんな意味が言えるでしょうけれども、普通やはり自分の知っておる限りの人に、信心の話をさして貰うて、そういう連れのできる位の信心をさして貰はなければいけん。今日はここ、信心に連れはいらぬと仰しゃるけれども、その前提としての、やはり連れも作りきらん位じゃつまらぬと私は思います。だから荒戸までは遠いですから、毎晩毎晩、晩の御祈念には、朝の御祈念には、近所の方が真名子さんのところに集まった。という程しにおかげを受けられた。
その先がいわゆる日に日に生きるが信心なり、と言う厳しく教えられとります。これはもう本当に厳しい事です。純粋な信心もう過去はない、この道だけがある、と言う先のことも心配はない、過去のことももう何もない、今日だだ今が有り難く信心させて頂いておれば、それでも良いと言う事でございましょうけれども、ところがその御理解二十六節の前の二十五節に、信心は大きな信心がよいと仰しゃる。その大きな信心と言うのも、あまり詮索しないで、ただ大きな信心と言う事になりますと。
やはり連れのいる信心、連れは作って行くという信心、連れのうた信心、それでこそこれも又いろんな意味で、深く広く頂きます、とそうではありませんけれども、やはりそうだと思う。枯れ木も山の賑わいと申します。例えば教会なら教会でも、本気で純粋に合楽の信心を有り難いと言うて、参って来るばかりの人、はそう沢山はありません。大祭の時にはまあ、年に何回と言う人達は、又は連れなうて誘われたから、仕様事なしと言う人もありましょう。
そこに大祭の御ヒレイと言うものがある様に、だから私どもは、その中心をなす信心を頂きたいのですけど、やはりそうして大きく教会が育って行く事の為には、ただ自分自身が大きくならして頂く為には、それこそいやでも、そこをのまなきゃならないと言った様な事も、私はいるのじゃないかと思います。私は昨夜の、毎年恒例になって終いましたが、マル少が夏休みも後僅かになったと言う、いつも昨日でしょうか、何と申しましょうか、まあ皆が集うて。
それと青年会なんかにも応援を願って、それで一般の御信者さん方にも呼びかけて、しかもあれだけの事をする為には、子供達には子供達で何日も何日も練習しましたり、又ほんとに私は、昨日夕涼みに出て見ましたら、あまりに見事な舞台が出来とるのにびっくり致しました。売店まで出来とると言った様なですね。真ん中にはあの様な、青年会の方達の手になるのでしょうけれども、あんな頑丈な櫓まで出来ましてね。
やっとるのを見てから、本当にこれは教会全体で子供達を応援してやらなければ、いけないなと思いました。けれどもそれは実に大人にとってはもう迷惑千万ですね、晩始まるのが遅うございましたから、もう十二時近く、けれども立つたらばらばら皆立たれるじゃろうと思うてから、一生懸命辛抱して、まぁそこに掛けさせて頂いておりましたけれども、それこそもう子供達のすることですから、本当に他愛のない事ばかりでございますけれども、これはやはり大きな信心じゃないと出来んと思います。
もうあげなものば見たっちゃ何なろうのと、言えばもうそれ限りです。それは本当に枯れ木も山の賑わいでもです、私は賑おうてやらねばいけんなと、大人があれだけ一生懸命の事をしているのですから。もう子供達としては一生懸命ですから、その一生懸命にしとるのに、来とる者は子供達の親兄弟だけであって、本当に信者さんというのは総代さんですら見えてないと言う事。
まあ信徒会長と永瀬さんが見えてました位の事でございましたがね。それでまぁあれ達のは、あれでよいと言うのでなくて、ここに私はですね迷惑な事なんだけれども、やはり連れになってやらねばいけないなという、今日はしみじみ感じました。だから惟はもちっと皆さんにあれだけ大掛かりな事をするなら、もちっと本格的な事を呼び掛けねばいけなかったなあと、それはもう呼びかけて来てからもそれはがっかりですね。
子供達のする事ですから、しかも晩の十二時頃までやられて御覧なさい、もう本当に迷惑千万です。けれどもあれに私どもが連れになってやられたら、もっと何とはなしに違った雰囲気が出て来るのじゃなかったろうかと、いう風に昨日は感じたんですがね。それはもう本当にそれを見ておる者は、それこそもうお付き合いです。けれども子供達の一人一人にもです、あれがどのくらい印象になるというか、あれが子供達には、あれが将来の信心のかてになるかと言う事を思うとです。
やはり子供達の連れになってやらねばいけないな、これはやはり幼稚園の先生になった様な気持ちがいるんじゃなかろうか、そういう心が私、大きな心じゃなかろうかと思います。なら幼稚園の先生でもですよ、やはりそうでしょうけれども、実際は子供達と一緒に遊びをする事が、楽しうなって来ると言う事でございますが、そこに私はこれからの、いうなら合楽を担って行く子供達の為にです。
大人達がもちっと考えてやらねばいけんのじゃなかろうか、もちっと大きな心で協力してやるべきではなかろうか、又は連れはいらんと言われるけれども、やはり連れのうてやって行かねばいけんのじゃなかろうかと言う事を、昨日の夜の集いと申しますか、と言うのに感じさせて貰いました。と言うのは一番最後に、合楽音頭を櫓の上で太鼓を叩いて、太鼓に合わせてから皆さんがあそこを一周して、段々お広前さえ入って行くという趣向でございましたが、あの時にはですね。
やはり同じように歌うたり、手を動かしたり、足を動かしたりしておる、あの時には大人の方達も、まあやはりちっとは楽しかったのじゃなかろうかと言う気が致しました。あれは協力してやったからであります。協力の中に子供達のあの熱意に巻き込まれたのでしょうね。ですから始めからです、これは詰らん事でしょうけれども、まあ自分の子供、自分の孫達と言うのが出ておれば。
それだけで可愛いらしいでしょうけれども、全然そうでもない方達は本当に退屈千万であり、迷惑千万である。けども、この辺のところを、事合楽で行われると言う時には、その位な協力位させて貰えれる大きな心、大きな信心が必要じゃなかろうかと、昨日しみじみその事を感じました。これは子供達にいくら連れはいらんと言うても、子供達だけでは何も出来はしません。
やはり連れのうてやらねばいけないのではないだろうか。それは事実きっか、きっか早う終わればよい所え、も少し短くすりゃよい所えと、それはもう疲れる事は大変、私なんかはもう、こっちの方が踊ったごときっかです。けどもそう言う事もね、やはり信心で、大きな心で、まあ大きな腹でとも申しましょうか、やはり協力まあこれからの事もございます、協力さして貰える一っのゆとりを持たせて貰わなければいけない。
日に日に生きるが信心なり、と言う厳しい表現で。ここんところを結んでありますけど、連れはいらんと言うとこを。今日はそういう前提として連れがいると言う事、また私どもが大きな信心という意味合いに於いて、私どもが協力してやらなければならないという信心。まあそれは私どもが、枯れ木も山の賑わいになってやらなければならない、子供を中心にして、そういう働き合いと言うものが、矢張りなからなければいけんと言う事を感じましたですね。
どうぞ。